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科学的方法(かがくてきほうほう、英: scientific method)とは、物事を調査し、調査結果を整理し、新たな知見を導き出し、知見の正しさを立証するまでの手続きであり、かつそれがある一定の基準を満たしているもののことである[1][2][3][4]。科学的な方法は、科学的手法ともいわれる。 「一定の基準とはそもそも何か」という問題は諸論があるが、大まかにいえば、その推論過程において「適切な証拠から、適切な推論過程によって演繹されたものとみなせること」が要求される。また、定量化が可能で、統計学の見地から見て有意であることも望まれることが多い。
科学的な方法の概要科学的な方法は、断片化された散在している雑情報あるいは、新たに実験や観測をする必要がある未解明な対象に対して関連性、法則性を見出し、立証するための体系的方法である。 古典的基本科学的な方法の古典的な基本は、17世紀にデカルトが『方法序説』で示した以下の原則である[3]。
この枠組みについて現在の科学的方法を論じる上では若干の修正や適用範囲の制限を行わねばならないが、放送大学教授濱田嘉昭が「現在でも研究論文を書きあげる指針として十分光を放つものである」と述べている[3]。 現代における指針の一例現代の「科学的方法」に関する一つの指針として、アメリカ科学振興協会による1989年の報告書、「すべてのアメリカ人の科学」[1][注釈 1]がある。一般に、科学的方法に関する指針を「発言者の立場」に基づいて大別すると、 科学者、技術者などの科学サイドの人間によるものと、 哲学者、社会学者、教育学者等の社会的サイドの人間によるものがあるが、「すべてのアメリカ人の科学」は、 草記、審査、承認に関して、これらのすべての立場の世界的な権威が かかわっている[1]という特徴がある書物であるため、現状もっともよく受け入れられた指針と考えてもよいだろう。 「すべてのアメリカ人の科学」では、科学的な方法の特徴は、その調査プロセスと、論証過程に顕著に認められる[1][注釈 2]としている。調査プロセスは、「仮説の構築とその検証」による[1]。科学的な論証方法の顕著な特徴としては「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」の3つが認められる[1]としている。 また、現代の科学的な方法においては、一つの現象を説明する場合に、「なぜそうなるのか」という哲学的な問題を棚上げした上で「その現象がどのようにふるまうのか」に着眼する傾向がある[5]。この意味で、科学的な方法においては結論の提示は現実の物理現象、社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデル[6]を提示する形で行われる傾向がある[1][3]。結論の成否は証拠となる事実の取得方法、処理方法、推論過程の適切さの判断となる。しかしながらこの問題は評価の問題を含む。また分野間、研究者間によってデータの処理方法や実験的所見、定性的又は定量的手法等が異なる[1]。 批判他の学問領域が扱ってきた伝統のある領域のことにまで、自然科学の領域で作り出されたカテゴリー区分・概念・用語などを、安易に拡張・転用して説明するようなことは不適切であるとされることもある[7]。 このような領域の重要な例としては、 恋愛、神、神話等、人間の感情や、宗教、アイデンティティーにかかわる問題がある。 このような領域に、安易に科学的方法を導入しようとすることは、「科学主義」や「科学原理主義」などの呼称を用いて批判されることも多い。 また、宗教関係者や哲学者(特に相対主義者)、市民運動家などからは、「ものごとは何でも全て理論的に解決可能だ」などと思い込んで突き進んでしまうことが科学主義と呼ばれて批判されることもある [7][注釈 3][注釈 4]。
科学的方法の対象となりえるものの特徴づけは、一般には難しいが、次項で説明する。 科学的な方法の対象科学的な方法が取り扱い得る対象については、科学者の間でしばしば見解の相違が見られる。一般に「科学的な方法」の適用範囲については人によって様々であり、対象を限定する議論は極めて難しい。その理由は、個々の研究者間で証拠の妥当性や扱う対象の価値判断が異なるためである[1][3]。 科学の扱う対象について、以下の論点がある[1][8][9][10][11][12][13]。 定量性科学史研究者の岡本拓司(東京大学)の文章には「測れるもののみが科学の対象」と書かれている[9]。これが定量性に対するオーソドックスな考え方である。 定量性とは、「論じる対象を測定することが可能であるか/否か」という問題に支えられる。 測れることを保証するためには、適切な測定方法が必要である[9][14]。 適切な測定方法の実現には、正しい測定原理と、それを実現する適切な装置構成、適切な精度評価が必要である。物理学や化学では、測定原理の妥当性の評価が比較的行いやすい対象が研究対象になるが、それでも最先端では、測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性に対し議論が生じる場合もある(「科学的方法における証拠」の項目を参照のこと)。 再現性論じる対象を測定することが可能であったとして、今度は、再現性が問題になる。 再現性については、例えば、物理学者中谷宇吉郎(1900-1962)は1958年の著書において「科学は再現の可能な問題に適用範囲が限られる」と述べている[8][注釈 5]。19世紀の科学では、文字通りの「再現性」が重視されていた。 一方、筑波大学教授・宮島龍興が日本教育工学振興会提言[10]において指摘しているように、現代では(厳密な意味での)再現性や定量化が難しい対象も科学の対象となってきている。この背景には、(20世紀、なかでも20世紀後半における)推測統計学の導入により従来の記述統計をベースとした統計処理だけでは扱い切れなかった対象が定量的に考察しえるようになったことがある。 例えば医学・薬学・心理学・経済学などは、根本的に複雑性や複合性を内包していて、再現性を得にくい生体や社会そのものを扱う[11]。19世紀までの科学の水準ではこれをうまく扱えなかったが)現代の科学においてはこれらも、科学的な研究対象である。つまり、このような「古典的な意味での再現性が無い分野についても、統計学の手法を用いて、科学的な方法論の対象とする」という立場が、現在の科学的方法の主流である。 論理的整合性心理学、教育学などでは、測定原理の妥当性の評価が極めて難しい対象、例えば心の痛み、知能、学力等を扱う [15] 。例えば「心の痛み」というものが存在することを否定するものは極めて少数で、現代では組織運営をする上でも極めて重要な概念であり、正しい根拠に基づいた判断が要求されるものであるが、これを定量的に測定する測定原理を提案することは難しい。同様のもので、(存在するか否かが怪しいものもあるが)おそらく存在するだろうと考えられ、何らかの重要な問題と関係があるものであるが、その測定原理を示しがたいものは沢山ある。 このような対象に対しては、「論理的な整合性を維持しながら、適切な証拠を集めて議論をするならば科学的である」とする考え方もある[12]。このような見解に立つと、ハリウッド映画俳優の共演関係のようなものまで科学的考察の対象と考えられることがある[12]。このような考え方も、定量化が難しい分野においては、しかたなくではあるものの、ある程度認められた考え方である。 科学的な方法のプロセス科学的方法には、そのプロセスに以下のような要素が含まれるという特徴が有る[1][3][16][17][14]
簡単に言えば、科学的な調査手法は「仮説をたて、検証し、次の計画に反映する」という営みであり、その作業工程はおおざっぱにいえば「仮説の構築」と「その検証」の延々たる繰り返しとみなせる。 大学教養課程未満では教育課程では正則的なループを想定した課題が与えられることが多い。つまり(1)-(6)までのループを何度か繰り返したあと、(7)に至ると等いった極めてオーソドックスな流れをが想定されている。たとえば2007年前後に出版されている文部科学省高等学校検定教科書の課題研究の欄や、学部レベルの学生実験の教科書[14]にはおおむね「(1)-(6)までのループを何度か繰り返したあと、(7)に至ると」ことを勧める記述がある。 しかし、プロの研究者のレベルになると、試行錯誤が迷走する可能性の高いレベルの高いテーマを扱うことが多いことや、いくつかの仮説を並行してテストできるようなスケジュールを組むこと、いくつかの項目を同時並行的に行うが多いため、変則的になってくる。しかし、一つ一つの行動は、概ね上の要素に還元できる[16]。 「仮説をたて、検証し、次の計画に反映する」という考え方は、広く一般化されており、プロジェクトマネジメントにおいては、PDCAサイクルという名前で、一般のプロジェクトの管理に加え、研究開発や国の大型研究プロジェクト等の大局的な管理において基本となる考え方として受け入れられている[18]。但し、PDCAサイクルが日本で広まった背景にはQC活動があり、この活動は、統計の専門家や、品質管理の専門家が中心となって広めた活動であるため、広く言われるところのPDCAサイクルは、、根底となる思想面では研究の工程と共通する部分が多いものの、実際には意識の違いがある。意識の違いのうち最も大きな点は、QC活動では、「データに合うように研究目的を変更すること」はよいこととはされない点、また、実際の研究レベルでは、大半の成否は、「予備実験、基礎検討」までの段階で決まってしまう点である。 先行研究のリサーチ過去の論文などを調べ、何が分かっていないのかを調べる。または/同時に、自分の知りたいことを解明するにあたり、有効な手法がないか、比較、参照する上で有益なデータがないかを調べる。 一般に、研究者は、自分のテーマに関連する先人達の業績である文献をよく読み、その中から証明すべき事実を演繹し、実験仮説、リサーチクエスチョンを設定する[19]。このときの 仮説の善し悪しがその後の価値を左右する。 仮説の構築仮説とは、推測ではあるが、観察した現象や事実を説明できるものである。具体的には(いくつかの仮定を含む)何らかのモデルを立て、それに基づいて演繹的に結果(具体的なモデルや、何らかの周期性や規則性等)を予想したものである。(「科学的方法における結論」を参照のこと)。 通常は、仮説は実験を単純化したモデルを立てる形で行い、モデルをいくつか立てた上で、そのモデルの定性的な傾向、たとえば、入力する量を増やせば、信号がどのように変化するかや、モデルを支持する結果と反証する結果がどんなものかを予想した上で、大まかなセットアップを考案して実験の準備をし、だいたいの最適な設定とデータが取得されるデータのオーダーを予想する。また、その仮説をたてた大まかな理由もある程度明確にしておくとよい。箇条書きにすると、以下のことが重要である。
実験の計画研究の計画とは「何を明らかにするために、何をしたのか(するのか)」を定めることである。先行研究のリサーチや、それに基づく仮説の構築、あるいは先行して行った予備実験によって、「何を明らかにするために」の部分が明確になった時点においては、実験計画とは、何をどのように測定すれば、仮説がテストできるか、あるいは、問題の切り分け方法を考案することと、その測定を行う段取りをたてることである(ロードマップ、マイルストンも参照のこと)。 仮説のテスト方法、あるいは問題の切り分け方法を考える上では、「何と何を測定し」、「何と何の関係に着目し」、「どのように解析すれば」、仮説のテストが可能であるか、問題の切り分けが可能であるかを考案することが重要である。つまり、仮説のテストを行う上で重要となる評価項目を明らかにしたうえで、その評価方法(測定方法)を適切な原理と方法、必要な精度を見積もったうえで明示する必要がある(「科学的方法における証拠の項目」を参照のこと)。 仮説のテスト方法、あるいは問題の切り分け方法がある程度明確になった後は、「いつ、どこで何をする」に落とし込む必要がある。ところが、実際の研究計画は、理想的に事が運んだとしても個々の評価項目としての実験の結果によってシナリオが分枝する。従って、シナリオの分枝による先行したリスク評価が必要となる。軍事開発や大規模なソフトウェア開発などの大規模な研究開発プロジェクトでは、 Program Evaluation and Review Technique[20]に基づいた work breakdown structure [21] 、Precedence Diagram Method[22]、Arrow Diagram Method[23]等を を用いたシナリオの分枝の分析[24] が行われる。 シナリオの分枝の分析をしておくことで、どの順番で行うのが手際がよいのかを見極める事ができ、シナリオ上の可能性の高いルートで必要となるものは先行して準備、手配することも可能となり、また、条件分枝の上で絶望的なルート(俗に言う死亡フラグ)に陥った場合の対処(例えばどこで見切りをつけるか)も考慮出来る。絶望的なルートの例としては、例えば、仮説の立証にも反証にもならない結果ばかりしか得られず、時間ばかりかかるルートが考えられる。さらに、シナリオから大きくずれた状況に陥った時や、とっさの判断が求められた場合(まったく違うシナリオに遷移したほうがよい場合等)にも、より適切な判断が可能となる。 実際の研究では、学生実験とは違い、「初めから予想通りの結果になる」、あるいは「初めから予想を明確に反証する結果が得られる」ことは極めてまれである。実際には、最初に予想した内容を反証しているとも立証しているとも言い難い微妙な結果しか得られないことが多いため、実際には「予備実験、基礎検討」と「計画の見直」しの間の往復を何度も繰り返し行う必要がある[19]。また、実際の実験では予想した範囲を大きく逸脱した現象も視野にいれ、その場で随時予想や目的を修正しながら実験をしていく必要性が生じる。それでも、最初の段階でよく計画をたてておくと、それ以降の計画の見直しが楽になる。 試行錯誤型の研究の場合は、計画段階では目的を明確にしがたい部分があり、どうしてもマルチエンディング型のゲームのように、目的(結末)が抽象的になる。「目的を明確にしないことは、タクシーにのって行き先を言わないのに等しい」というたとえ話が教えるように、計画の良しあしについては、ゴールの明確さが重要といわれる。しかし、研究、実験の計画はそのたとえ話には乗らない。研究の計画を”「行きたいところ」に行くため”の計画にたとえたとしても、試行錯誤が多いため、「行きたいところ」というのを明確に書き下すことは難しい。タクシーのたとえ話にたとえるならば、「外国人が見て面白そうなところに連れて行ってください」、「桜のきれいなところに連れて行ってください」といったことは明確であるが、そこがどこなのかはよくわからないといった状況である。実際には「行きたいところ」は、漠然とした状態で「行けるところ」、「行けたところ」が計画の遂行、修正のたびに決まってくるといった側面が強い。ここが実験の計画、研究の計画の難点である。 この意味で、試行錯誤型の研究は、探検に似ている。探検においては、「行きたいところ」は「金脈」だったり「肥沃な農地」だったりするが、実際に見つかったものは「油田」かもしれないし、広大な砂漠しかない場合もある。このような場合には、「成果となりえるもの」の候補と、「それが現れる兆候」を試行錯誤の中でよく把握しておく必要がある。「外国人が見て面白そうなところに連れて行ってください」、「桜のきれいなところに連れて行ってください」という2つの目的地を比較した場合、前者のほうがより上位である。実際、前者は紅葉の季節であっても通用するが、後者は通用しない。このように、当面の目標以外にも、より上位の目標、共通の上位目標を持つ別の代替目標を並行して考えておくことも必要である。 尚、実験の計画については、実験計画法という分野があるが、これは、QC活動に関連したものであり、目的を明確で、実験の計画が迷走しないルーチンワーク的な実験(例えば実証実験)や品質保証における実験を手際よく行うことを想定しており、特に試行錯誤型のの研究にはあまり関連しない。 予備実験、基礎検討及びその解析予備実験、基礎検討とはリサーチクエスチョンの抽出や仮説、モデルの構築、オーダーエスティメーション、実験の問題点などの評価切り分け、最適条件の探索のために行う実験、検討のことである。 「実験の計画」の項目で述べたように、実際の研究では、学生実験とは違い、「初めから予想通りの結果になる」、あるいは「初めから予想を明確に反証する結果が得られる」ことは極めてまれである。実際には、最初に予想した内容を反証しているとも立証しているとも言い難い微妙な結果しか得られない。 そのため、大体の場合、研究は大雑把な仮説とその根拠になるプレリミナリーなデータを積み木のように組み立てていくことで進行する。つまり、「実験の大まかな傾向を見るための実験(予備実験)を行いながら、当初考案したモデルも修正しながら、さらにそのモデルの成否をよく判定する条件を探りながら再度予備実験を行い」というサイクルを実行する。つまり、上記の(1)-(4)の間のプロセスを長い期間往来する。このプロセスにより、価値ある研究課題と最適な実験条件が見つかり、実験手技も高まって安定していく。 予備実験の良し悪しは、その実験家のセンスそのものだという学者もいる[19]。通常、どの研究者も、まずは初歩的な阻害要因(グランドループによる発振や電源ノイズ、振動、極端なコンタミネーション、手技の不足)をあたって、それらがドミナントでない場合には誰でもこのレベルの問題は解決できる。また、条件を振って問題の切り分けを試み、何らかの操作を行い、その応答[注釈 6]から押さえるべきポイントを論理的に把握ることを試みる。また、複数の実験データをみながら即座にいろいろなモデルを立て、そのモデルを考慮しながら随時、実験条件の最適化を図っていくこと。しかし、最終的に整合のとれたモデルとデータの組に到達できる人は少数である。そのような者は、どうしようもないときにも「この山はハズレ」との結論に到達するまでの時間が短くさらにその決断は正しい(どのような要因が邪魔なのかをそれなりには正確に把握している)。予備実験の段階で注意すべきことを箇条書きにすると、以下のようになる。
実験の勝負は、「先行研究のリサーチ」、「予備実験」の段階で大半がきまり、これに従い、「リサーチクエスチョンの抽出」、「仮説の構築」、「最適な実験条件」が機械的に決まり、実証実験に至っては、もはやルーチンワークでしかない[19]。このことから、研究者の成長にとって、実験の大半を予備実験や基礎検討に費やすことが遠回りなようで、実はこれが実験の成功への近道であるばかりか、若い研究者の研究能力の大きな基盤財産になると考えられている[19]。 実証実験仮説が正しいか、否かを、客観的な形で検証するための、デモンストレーションを前提とした実験。 実験の再現性という観点から言えば、実証実験は、よほどの人を除き誰でもできる程度の完全なルーチンワークであることが望まれる。 科学的方法における論証「IMRAD」も参照 論証が科学的であるためには、少なくとも論理的であることが求められる。 一般に、科学の領域における「論理的」という概念を説明するモデルとしては 三角ロジック(論理の三要素)[25][26] が有力である[25][26]。三角ロジックとは、以下に示す3つの要素化ならなる論法である。
三角ロジックは、 スティーヴン・トゥールミンによるトゥールミンモデルの簡略化であると考えられている[25]。 これらの言葉の意味を簡単に例解する。例えば、推理小説においては、証拠、証言を根拠にして推理が進み、そして結論が導かれる。「犯人はA氏だ」というのが「主張(結論)」である。「根拠となる事実」というのは、例えば「血のついたナイフ」とか「ドアについた指紋」といった、証拠物件自体それぞれや、「何時に駅でA氏をみた」といった証言自体それぞれのことである。推理小説では、証拠物件の存在や状況、証言から何らかの推理を行い、「犯人はA氏だ」ということを立証するための論を述べるが、これが「推論過程(論拠)」である。 科学的な論証においては、上記の3要素に関して、相応の適切さが求められ、それが適切であることが科学的な方法を特徴づけている。このいみにおいて、科学的な論証の顕著な特徴としては「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」の3つが認められる[1]。 科学的方法における結論「現実の対象がどのように振る舞うか」に着眼する現代の科学では、結論の提示は、現実の物理現象・社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデル[6]の提示という形で行われることが多い[1][3]。モデルの良し悪しは、明確であることが求められると同時に、扱いやすさ、どれだけ多くの現実を説明できるかにかかっている。 モデルの成否の推定については、以下に挙げる「チャールズ・パースの仮説形成法」が基本になるとされている[3][27][28]。
いわゆる「現象論的」と言われる考察においては、このような考え方を特に好んで行う。 また、現在において認められている理論のほとんどすべては、「多数のFを説明できるからHは正しい」といった論拠に基づいており、逆に言えば、どれだけのFを説明できるかがその理論の優劣を決める[3]。このようなモデルに基づいた仮説形成法は、「必要条件と十分条件の混同」という点においてデカルトの枠組みを若干逸脱しているが、科学的推論の過程においてよく用いられる[27]。 特に現代の科学においては、 「真理とは何か」といった哲学的でとらえどころのない問題にくらべて、「どのようなモデル・式・計算コードが現実を最もよく反映するのか」という問題が圧倒的に重要な意味をもつ[6]。そのため、現代の自然科学においては、「とりあえず」のメカニズムを考案する上で
というアプローチをよく行う[6]。特に萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、外挿によって近縁の系に対して予測を立てる(所謂「合わせこみ)」という手法がよくとられる。 このような「合わせこみ」をベースとした現象論的・現代的なモデル形成手法は、特に「物ができること」を重視する応用系の分野において顕著な成果を挙げており、現在のデータからより優れた物を作る指針として活用されている。素粒子論等の基礎的な分野においても、このような手法の活用に苦言を呈する者はいるが、少なくとも論文を書く上ではよく用いられている指針である。総じて言えば、基礎研究・応用研究の両方において強力な手法である。 特に基礎分野の研究に対する、現代的なモデル化手法の積極的な導入に対する苦言の根拠としては、現代的なモデル化は、モデルを調整するための変数があまりにも増えてしまうと、そもそも計算が困難になり、直観による見通しが利かなくなるという弱点があることがよく言われる[29]。特に、素粒子理論などでは、現実を説明するために どんどん新しい素粒子が仮定され、話がどんどん複雑になっていくということが問題視されている[29]。単に「話がどんどん複雑になっていく」というだけでは「悪い」とは言えないが、一般に結論はシンプルであるほうがよいと考えられている。結論のシンプルさに関しては、以下の「オッカムの剃刀」という原則がある。
概ねこのような原則は、「並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する方法」の一つとして現代の科学者において、理念的な面でうけいれられているが、あまり教条的に受け入れてしまってはいけない事柄である。その理由としては、
などの問題点がありえるからである。 無論、明確な指導原理が得られないままパラメータが泥縄的に増えていく状況が生じた場合には、オッカムの剃刀という理念を再度思い起こす必要がある。 科学的方法における証拠科学は証拠となる事実(生データ/証拠物件)を要求する。科学者は何らかの「真偽判定」を行う場合に「どういった証拠が結論を支持し得るか」ということを考える[1]。このような思考は一般に、科学教育において優先的に身に着けさせるべきことと考えられている[1][2]。この際まず、仮説を支持する証拠と仮説の反証となる証拠を明確にする必要がある[1]。さらに、結論を立証、あるいは反証するために必要な実験を計画する必要がある。 一般に、「仮説の反証となる証拠の存在」は、必ずしも反証となる証拠を提示された理論の否定にはつながらない(「結論の明確さと反証可能性」を参照)[1]が、特に実験家は、既存の理論の反証となりそうな実験を好んでターゲットにするという傾向があり、そのような反証例を基に、理論が洗練させられていく[30]。 証拠となる事実の取得(測定)の段階では、適切な測定方法の存在が重要となる。 適切な測定方法の実現には、正しい測定原理と、それを実現する適切な装置構成、適切な精度評価が必要である[9][14]。 測定原理の妥当性は、直接測定(例えばば自分の身長を直接身長計で測る場合)の場合にはあまりその重要性が意識されないが、間接測定(例えば三角測量で山の高さを測る場合)には、その妥当性(本当にその方法で山の高さが測れるのか?)が極めて重要になる。また、「何を明らかにするために何をするのか」という研究者が意識すべき重要な事柄にも密接に関係する。 物理学や化学では、測定原理の妥当性の評価が比較的行いやすい対象が研究対象になるが、それでも最先端では、測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性に対し議論が生じる場合もある。測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性、精度の評価はそれぞれの学問における最も本質的な議題の一つであり、それぞれの学問分野で研究されることである。 測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性については、主に大学の学生実験で重点的に指導される[14]。逆にいえば、測定原理の妥当性と装置構成の妥当性について学ぶことが学生実験の一つの重要な意義である[14]。典型的な例としては、ボルタ振子の実験等がある。この実験では、振り子の周期と重力加速度の関係を理論的に導いたうえで振り子の周期を測定することで、重力加速度を間接的に測定する。 もっとも最近では実験ツールのキット化が進んでおり、間接測定であっても、妥当性は実験装置、実験キットのメーカーが保証してくれていて、実験者が意識しなくてもすむようになってきつつある。また、測定原理、装置構成、精度の妥当性の評価を行うことを目的とした論文以外の論文では、博士論文等のような大著の論文を除き装置構成の妥当性や装置構成の詳細、測定原理の妥当性については、軽く触れるにとどめるのが普通である。このようになった原因は、装置構成に関する権利を別途(他のだれかも含むだれかが)特許文献において公知とされ、新規性がないため(「二重投稿」だと誤解されないため)、あるいは、特許に関する権利を取得する際にネックとならないため、あるいは、レター形式の短い論文が主流になっていて、書くスペースがないことによる。 証拠となる事実の整理(解析)、あるいは実証実験のように示すべき命題が明確になり、結論の有意性の問題に逢着 段階においては「データの解釈方法」「データの記録または報告」「データの重みづけ」等、適切なデータの取得、適切なデータの処理に関する問題が重要となる[1]。「適切」とは、ここでは、「どのような手順でデータを取得、解析すれば偏りが少ないと認められるか」を指す[1]。この問題は概して非常に難しく、有意性の問題といわれる。有意性の判断は先述のように分野によってどこまで容認するかに温度差があるが、この判定基準については統計学特に実験計画法[注釈 8] の分野の研究者が研究している事柄である。有意性の判定に関して、実験計画法では以下の3条件を原則としている(実験計画法の項目を参照のこと)。
また、「科学的であること」の要件として必須であるとまでは言えないものの「どのようなデータの収得順序、収得方法、統計処理方法でデータの本性をえぐりだすことができるのか」という問題も重要である。この問題の系統だった研究はデータマイニングの分野で研究されている。この問題に対してカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 中村修二が、「データに文脈性を持たせることの重要性」を説いている[31]。データに文脈性を持たせ、一見意味のない雑情報に見えるものの中から意味のある情報を取り出すためには、セレンディピティーや磨かれたセンス場合によっては運が要求される問題でもある。センスを磨くためには実験ノートの有機的な活用など実験をよく振り返ることに加え、関連するよい論文に目を通し発見の過程を分析する必要がある。 科学的方法における推論過程「IMRAD」も参照 結論と、実験事実の間にはなんらかのギャップがあることが通常であり、その間を結ぶ考察が必要となる。すなわち、証拠と結論を結ぶ適切な推論過程が考察である。 科学的な論証に限らず、推論過程を、一つの観点から分類すると、 大きく帰納と演繹の二種類に分類できる。通常は、試行錯誤の過程において、帰納と演繹を繰り返し行う[32]。例えば少数の現象から、それらを統一的に説明する 仮説を帰納し、その仮説からより多くの現象を予測する。
推論過程を、別の観点から分類すると、直接証明法と間接証明法に分類できる。
考察を行うに当たっては、必要に応じて、なんらかの理論や既に公表された他の実験データ等を援用し、証拠を補完する必要がある場合もある。しかし、ある程度信頼を得ている理論ですら完全な証拠の補完ができず、いくつかの推定が根拠の中に混ざる場合や、推論過程自体に粗が存在する場合もある。一般に、「どのような推論過程」が適切であるのかは、その研究のオリジナリティーにかかわる部分であり、特に研究レベルでは極めて難しい。 実際、物理の重要な概念を創造した論文は、たいていは隙がある論理展開をしていると指摘される[30][33]。通常の学部レベルで想像される緻密な理論展開は、創造的理論を受けてその内容を精密化したり整理する過程で生じる[33]。このように科学においては論理性を重視する一方で、現実の対象を扱っていることによる若干の論理の飛躍を認めざるを得ない側面がある。一般に、現実の対象を扱う学問では多少飛躍を許してでも学問を進めたほうが、後になってみて分かることが多いと信じられている[34]。反面、この意味では「科学的な方法によって得られた結論」であるというだけでは「科学的に正しいか否か」「現実的に正しいか否か」「現実的に役立つか否か」は必ずしも一致するとは限らない[35]。問題は、「ギャップを認めつつも推論を進め、意味のある仮説を提唱し、それを広め、集団で検証する」という建設的な立場の重要性にある[4][30][33]。 論理の飛躍としては、
等がある[30][33]。それぞれそういうものを認めざるを得ない相応の理由がある。 では、どこまでの飛躍やあいまいさを容認するのか。これは非常に難しい問題であり「真実への到達」を考えるならば安易に結論できない問題である。だが標語的に「仮説は失敗を恐れずに大胆に立てろ」といわれるように、一般に建設的な立場においては「真実に到達する」ためには「いろいろな”とるに足る”論」があったほうがよいと考えられている[33][34]。 最終的には「どれだけ沢山の自然現象を説明できるか」が科学理論の良し悪しを決めるため、この問題は、過度に深刻に考える必要性は乏しい。どこまでの論理の飛躍を認めるかについては「研究者のタイプ論」から説明されることもある。研究者のタイプはしばし(呼び方は別として)「先頭突撃型」と「地固め型」[33][34]に分類され、前者の場合は文字どおり、多少乱雑かもしれない実験や推論をする反面、重要な発見をする。逆に地固め型は過去の研究の”粗”の部分を補正する。 この論理の飛躍に関しては、「論文として世に出す価値を認めるか否か」に話を限局すれば節度の問題となっていて、ピア・レビューの過程で、前例やその報告の面白さ等を踏まえながら決まっていくものである[33]。ピア・レビューで出来ることは、せいぜいその程度のことであり過度な期待はいけない。この時点におけるレフェリーとの応酬に勝つためには当然、過去の論文を多く読みその論法を見ておく必要がある。また粗がある議論があって、それを部分的にでも修正することができるのならば(それを論理的に立証できる限り)それは論文を書くチャンスである。 結論の明確さと反証可能性結論の明確さの判断に関しては、特に疑似科学の批判活動において「ホパーの反証可能性の原則」がよく引き合いに出される。確かに本質的に立証も反証も行えないような対象は、原則論としては科学の対象とはみなされない[1]。しかし、特に研究の最前線においては、現実には、「ホパーの反証可能性の原則」は、言われているほど現実の研究者には、受け入れられておらず、むしろ軽視されているという指摘さえある[29]。 現在の研究の最前線において、反証可能性の原則が、実際にはきわめて軽視されている現状に対しては、危機感をつのるものもいる。例えばリース・モーリン博士は、現在の最前線における物理学の理論が、「どのような実験結果でも取り込めるほどパラメータが多い」ことを指摘したうえで、反証可能性を軽視している傾向を、「物理学の迷走」と断じている[29]。実際、モーリン博士が指摘するように、最近の素粒子物理、量子情報、物性理論等は極めて数学に近い様相を呈しているため反証可能性の原則を逸脱していることはしばし指摘される。また、特に、萌芽的な理論においては、実験がどんな結果を出してもそれを取り込めてしまうほどパラメータが多く、しかもそのパラメータの物理的な意味が不明確であることもしばしば指摘される。現在でも、このことを理由として権威ある雑誌への掲載が拒まれることがあるとされる[33]。 しかし、この傾向も最近では現実的な方向に、つまり反証可能性を変重しない方向にシフトしつつある[33]。現実の科学研究の進展においては、仮説はあいまいなところからはじまり徐々に明確になっていく傾向があり、論文を書く場合には簡単には反証されないように細心の注意を払う傾向があると指摘される[4]。特に、萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、近縁の系に対して予測を立てる」という手法がよくとられる。そして、このような手法が、特に物性予測等の分野(例えば、広い意味での第一原理計算)をはじめとした応用分野では、現実に役に立つ材料や装置の開発等において極めて強力な指針を与えるなど、一定の成果をあげているのも事実である。このような手法が用いられる背景には、シュレーディンガー方程式等の、物理学の基本となる方程式のほとんど全てが、大概の場合に厳密解を求められないことによる。厳密解を求められない以上は、なんらかの近似をせざるを得ないため、なんらかの”反証”となる実験結果が出たとしても「基礎方程式の間違い」なのか、「近似のまずさ」なのか、「実験の問題」なのかは必ずしも明確ではない。 また、反証されたことは、必ずしも間違いを意味しない。通常の科学者は、ある理論に対していくつかの反証となる例が発見された場合にも、理論自体を全否定するという考え方はせず、それを修正する/適用範囲を制限するという対応をするほうが一般的であり、より精度を高めてより広範に受け容れられるように何らかの変更を加えることが通常である[1]。例えば、相対性理論の有用性は、古典力学の反証によって立証されたが、相対性理論の構築は、ニュートン力学を破棄、否定する形をとらず、むしろニュートン力学がより一般的な概念の中で適用範囲が限定された一つの近似であるにすぎないことを示す形で行われた[1]。さらにニュートン力学に基づいた計算は現在でも科学技術の最先端で使われることが多々ある。この意味でも「ニュートン力学が相対論によって否定された」とまで言い切るのは早計であり、現在の科学者の標準的な考え方とは大きく異なる[1]。 尚、疑似科学と科学の線引きに関して、この問題は極めてあいまいな境界を持つ問題だが、これについても「反証可能性」よりも「有意性」のほうが重視される傾向にある[36]。 科学的方法を実行するための素養科学的な方法を実行する上では、調べるべき対象への知識、それ以前の基礎的な知識などが要求されるが、このような知識面以外に、「対象に影響を与えるドミナントな支配法則 をまず考慮して概略の傾向を数値的に掴むこと 」「実験ノートをきちんとつけられること」、「一定の計算力、論理的な思考力」などの知識面とは異なる素養、具体的にはスキルや評価項目が存在すると考えられている[2]。 研究者レベルの人間に必要な素養全てを書きだすことは難しいが、教育レベルでは、ある程度明確化されてきている。一般に、教育レベルでは、以下の素養を身につけることが必要であると考えられている[2]。 科学での考え方と証拠
調査能力
不規則なデータについてそれらを却下もしくは採用するための理由について検討するとともに、測定と観察にともなう不確かさに関して、データの信頼性を検討すること。
このような不安をなくすためには、手技的に習熟するのは当然として、手技以前にどのくらいミスやブレをなくすことができるかを徹底的に考えるも大切である。このような考察には、抜群の想像力が要求されると考えられている。この点に関して、九州大学の中山敬一教授は、「チューブの並べ方やチップの使う順番(のような極めて簡単なことまで)まで理屈を持って決めていました。そこに流れている思想を読み取って欲しいと思います。と述べている。このように、一流の実験家は、実験装置をどの順番で使うのがベストであるだとか、どのようなサインが出た場合には何がどのように影響している場合があり、それはどのようにすれば排除できるのかといったことまで理路整然と把握している[19]。 「科学的」という言葉への誤解科学的という言葉に関する2つの極端な立場がある[6]。ひとつは、「科学的に証明された」「正しい理論」という文言と、それらしい実験を示しただけで、盲目的に信仰するという立場である。もうひとつは、すべては「単なる理論」であるという事を極端に強調し、全く信頼しないという立場である。これらは2つとも科学的という言葉に対する初歩的な誤解である[6]。 「科学的に証明された」、「正し理論」という言葉が、何を意味するのかは、非常に幅の広い意味を持つ言葉で一般には難しい[6]。このような問題を考慮する場合には、「研究目的にたちかえって考えること」や、「測定とはどのようなことなのか」、「科学的な論証で用いられる論法」等、「科学的な方法」に求められる諸要件について理解しておく必要がある[6]。 特に、科学的な態度においては、特に論文などのように、自らの得た知見を世に問う場面においては、明確な研究目的の提示を行うこと、そして「研究目的で提示した問題の解」において明快な論理と確かな証拠を以て立証する義務が生じる(詳細はIMRAD参照)。これは、数学の証明問題において「示すべき命題が何なのかを意識せよ」と言われるのと同じことである。例えば「鶏肉からDNAを抽出する」という研究目的を立てた場合には少なくとも「抽出されたものがDNAであることをきちんと立証する」必要がある[注釈 9]。つまり、この研究目的に照らして例えば「洗剤に鶏肉を入れたら、白い沈殿ができた」という結果が得られたとしよう。この場合この結果と「その白い沈殿がDNAである」という結論の間を最も真剣に考察する必要が生じる(循環論法の項を参照のこと)。 本来科学的なもののみかたを広めるはずの、啓蒙活動が、かえって「科学的」という言葉に対する誤解を広める原因となることもある。古くから、健康番組や科学番組などにおいて演示実験がおこなわれる。また、科学啓蒙家による演示実験による啓蒙活動がよく行われる。また”インパクト抜群のオモシロ実験”を自宅で簡単にできるようにコンパクトにまとめた本が多数売り出され好評を博している。これらの中には、しっかりとした調査の上に科学的な論理を以って物事の成り立ちを示す大変質の高いものがある一方で、実験データの検証と解釈などの点で科学研究の基礎的な要件をあまりにも無視したものが多数見受けられる[37]。実際、金澤一郎日本学術会議会長は昨今の健康番組や科学番組における”科学的な論証”に対し、
などの点で科学研究の基礎的な要件を必ずしも満たしていないものが見受けられることを指摘している[37]。ここで指摘されている要件を満たしていない議論は、解釈の提示等において、科学的な推論の規範とは到底言えず、科学的な推論方法を身につけさせる上では有害と思われるものも多数見受けられる。このような、粗雑な議論も、「科学的」なものを扱っているというだけで、科学的だと誤解されることがある。さらに、ゆとり教育においては、特に初等教育、中等教育において「体験型」を重んじるあまり、単なる「じっけんごっこ」にすぎない、「科学的方法」とはかけはなれた行為を「実験」として理科の教育課程で行ってきてしまったということが指摘されている[38]。 わかりやすさを前面にだすためには、ある程度は枝葉末節を切り捨てることが重要ではあるが、科学的な論証の上で必要な手続きを無視した議論は、結論の成否に関わらず、科学的な態度とは対極にある態度である 一方で、科学的という概念を無駄に潔癖な方法と誤解している者もいる[4]。現実の科学者に対して、無駄に潔癖な考え方を押しつけただの誤解やミスあるいは(マスメディアに見られる”科学的推論”に比べればはるかにギャップの少ない)「多少は強引な結論」等、科学の進展の上では必然的に生じてくるような特段騒ぐほどでないものを誇張して科学における不正行為と騒ぎ立てるものがある[4]。こういった問題は最近においては「芸能人の不倫騒動」と同列に大衆の興味を掻き立てるものである[4]。科学者においては誠意をもった推論が必要なことは言うまでもないが、最近においてはこのような”ゴシップ騒動”の影響で、特に若い世代に萎縮効果が出るなどの弊害がある点には注意が必要で、健全な科学の進展には弊害がある[4]。 科学的方法の歴史と哲学「科学史」も参照 科学的な方法とは何かという問題について、これまでは科学者の側あるいはそれに近い側からの議論を中心に述べてきたが、この問題は科学哲学の重要な問題の一つでもある[39]。但し、反証可能性、オッカムの剃刀などに関する諸議論等は、科学者にとっての必須教養ではなく、また、研究開発の現場と乖離している場合もあり、また哲学として一定の権威をゆうしているものであっても、極端にその考え方を推し進めるとまったくのでたらめに近い議論が成立することもあるので注意を要する。科学的な方法を身につける上では、特に初学のうちは下手に手を出さないほうがよい事柄も多く含まれ、研究者として未熟な段階でこの手の議論にとりつかれてしまったがために、この手の話題だけには強くなり、インターネット上等で教弁をふるってはいるが、研究業績はさっぱりという”研究者”もいる。 特に、哲学と自然科学が分業して以降は科学哲学の側がどうしても観念的になり、現実の科学を正確に理解しないまま「相対論を相対主義にこじつける」ような愚が野放図に行われる有様であった[30]。 また、古典的な科学哲学者の見解には科学の進展の美化された部分を高度に抽象化させすぎるきらいがあることが指摘されている。結果として道徳の次元としては美談だが、現実の科学の進展に寄与したい人間にとっては逆に変な誤解や萎縮効果を与えてしまう危険性のある理屈がまかり通り、神話を作るだけで結果として科学者の側にとってはどうでもよい問題を延々と議論しているという指摘がしばしなされる[30][40]。 不幸なことにこのような古典的な科学哲学の問題点は「いまでもそのまま」だと誤解されているようであるが、これはとんでもない間違いである。現在の科学史、科学哲学においては既に実験ノートの記録などから科学的に研究者に迫るアプローチが主流であり、従来の観念的な科学論は科学哲学の中でも重要性を失っている[40][41][42][43]。 観念的な大昔の科学史、科学哲学によって形成された神話的な科学者像は正確には実用性に欠く見当違いな「科学的方法」観を与える。先述のように、科学的な方法においては、最終的にはデータに文脈性を持たせることが重要になるが、データに文脈性を持たせる能力について「単なる弁明の能力でしかなく、科学を進める原動力にはならない」と言う人もいる[41]。そして、「口がうまい者が一流とみなされる」と嘆いて見せる[41]。しかし最近の科学史の研究においては、「パスツール」だとか「ファラデー」とかいった比較的神格化されている人たちも含め、どちらかというと「口がうまい」と嘆かれる研究者に近くそういう特質をもっていたからこそ科学を進歩させられたのだとみる見方が主流となっている。 脚注・出典脚注
出典
関連項目
Questions for article: アブダクション 思考実験, 科学 論証間違い, 科学理論 実在論的かどうか, 岡本 拓司 測れるもの |
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