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ユーストン駅(英語:Euston station)は、ロンドン中心部北部の主要な鉄道駅であり、カムデン・ロンドン特別区にある。ロンドンで6番目に乗降客数の多いターミナルである[2]。ネットワーク・レールの管理する18の旧イギリス国鉄の駅のうちの1つであり[3]、ウェスト・コースト本線南の終着駅である。ユーストン駅はロンドンからウェスト・ミッドランズ、ノース・ウェスト・イングランド、ノース・ウェールズそしてスコットランドへの向かう際の玄関口である。地下鉄ユーストン駅に接続していて、同ユーストン・スクエア駅にも近い。これらの駅はすべてトラベルカード・ゾーン1内にある。
歴史現在の駅舎は現代的なインターナショナル・スタイルだが、ユーストン駅はロンドンに建設された最初のインターシティの駅である。 駅と鉄道の経営は何度も変更され、駅の所有者は、ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道(1837年-1845年)、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道(1846年-1922年)、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(1923年-1947年)、イギリス国鉄(1948年-1994年)、レールトラック (1994年-2001年)、そしてネットワーク・レール(2001年-現在)と、目まぐるしく変った。 旧駅舎
錬鉄製の屋根を持つ1837年のユーストン駅を描いた絵
当初の駅は、ロバート・スティーブンソン(Robert Stephenson)の建設したロンドン・アンド・バーミンガム鉄道の終着駅として、1837年7月20日に開業した。駅舎は著名な古典主義建築家フィリップ・ハードウィック(Philip Hardwick)によって設計された[4]。200フィート(61メートル)の列車庫の設計は、技師のチャールズ・フォックス(Charles Fox)による。当初、駅には出発と到着の2つのプラットフォームしかなかった。ハードウィックはまた、過去最大[5]の高さ72フィート(22メートル)のドーリア式プロピュライアも設計した。それは駅の入口に立つポーティコ(古代建築の柱廊玄関)で、"ユーストン・アーチ"として有名である。興味深いことに、スティーブンソンの当初の計画はノース・ロンドンを通って現在キングス・クロス駅がある場所に終着駅を設ける、というものであったが、地主からの激しい反対に遭い、トリング、ワトフォードそしてハローウを経由して現在のユーストン駅の地を終着駅とすることになった。 1844年まで、カムデン・タウンへの斜面では列車はケーブルで引き上げられていた。これはロンドン・アンド・バーミンガム鉄道法により、ユーストン地区では機関車の使用が制限されていたためである。この制限はこの区域の境界にある土地を所有していたサウサンプトン卿(Lord Southampton)の要請によるものであると言われている。 交通量の増加に伴い、駅は数年のうちに急速に発展した。1840年代には大規模な拡張が行われ、1849年には壮観な"グレート・ホール"がオープンした。グレート・ホールはハードウィックの息子フィリップ・チャールズ・ハードウィック(Philip Charles Hardwick)設計の古典様式で建てられたコンコースで、長さ126フィート(28メートル)、幅61フィート(19メートル)、高さは64フィート(20メートル)あり、格間を施した天井とホール北側にあるオフィスへと導く大きな2つ階段を備えていた。建築彫刻家ジョン・トーマス(John Thomas)は、ロンドン、リヴァプール、マンチェスターなどの鉄道で結ばれる都市を表現した8つの彫像を造った。駅はユーストン・ロードから遠く、その間にはドラモンド・ストリートにあった現代的な複合施設があった[6]。ユーストン・スクエアからアーチへの短い道はユーストン・グローブと呼ばれ、ユーストン・ホテルとビクトリア・ホテルという2つのホテルがこの道の北側にあった。ユーストン・ロードのエントランス・ロッジと駅正面にある彫像を除き、当時の駅の遺構はあまり残っていない。ヨーク のイギリス国立鉄道博物館には、駅舎取り壊しの際にグレート・ホール、入口、1846年のロンドン・ノース・ウェスタン・レイルウェイ(LNWR)のターンテーブルで発見された、記念銘板とE・H・ベイリーによるジョージ・スティーブンソン(George Stephenson、ロバート・スティーブンソンの父で蒸気機関車の発明者)の像が収蔵されている。
新駅舎1960年代初頭、旧駅舎はもはや時代遅れで建て替えの必要があると決定された。取り壊しを惜しむ多くの声の中、1961年から翌1962年にかけてユーストン・アーチを含む旧駅舎は取り壊され、1968年に新しい駅舎が開業した。駅の置き換えはウェスト・コースト本線の電化と機を一にして行われ、新しい建造物は 「電気の時代」の幕開けを象徴することを故意に意図された。 現代的な新しい駅舎は長く低い構造で、駅正面の幅は647フィート(197メートル)ある。駅舎はメトロン・ストリートとエバーショット・ストリートに隣接する2つのオフィス棟を含んでいる。すべての建築物は機能的で、主な外装は白いタイル、コンクリートそしてガラスを補完する、光沢のある暗い石で覆われている。駅には店舗や軽食堂のある1つの大きなコンコースがあり、列車庫と分離されている。旧駅舎の面影は僅かしか残っていない。ユーストン・ロードにある2つのポートランド石でできたエントランス・ロッジ(うち1つは1995年から2008年まで女性専用バーだった)と戦争記念碑だが、それらは旧駅舎の取り壊しに反対した人々を納得させるものでは決してなかった。旧切符売り場に立っていたカーロ・マロケッティ(Carlo Marochetti)によるロバート・スティーブンソンの彫像は、現在駅の正面に立っていて、露天売店を見下ろしている。駅舎正面はリチャード・サイフェルト(Richard Seifert)設計のオフィスビルの後ろに隠れている。中庭正面には「釣人」と呼ばれるエドゥアルド・パオロッツィの大きな彫像がある。中庭のまわりには、1990年代にネットワーク・レールの依頼により制作された、ポール・ド・モンショー(Paul de Monchaux)による石のベンチを含むパブリック・アートがある。 出発時刻表示板は、利用者が混雑するプラットフォーム入口を避けられる位置に設置されている。メイン・コンコースの下の歩道は、近郊列車を降りた乗客が地下鉄に乗り換えるために利用されている。プラットフォームへの傾斜路にはメイン・コンコースをふさぐことなく乗客が並ぶための部屋がある。駅には18のプラットフォームがあり、8番線から11番線はロンドン・オーバーグラウンドとロンドン・ミッドランド・コミューター・サービシズによって占有されていて、このため自動改札が設置されている。2つのプラットフォームは16両編成のカレドニアン・スリーパーが発着できるように特に長くなっている。自動改札のないプラットフォームでは時々人間による確認が行われる。 建築論争ユーストン駅の寒々とした1960年代の建築様式はまったく評判が悪く、「忌まわしい」[7]、「黒ずんだ灰色の水平の無」[8]、「従来の印象的な建物に対する醜悪な冒涜」[9]、「偉大なビクトリア終着駅が旅客に与える特別な時や冒険心」のまったくない 「安っぽい魅惑」の反映[10]、そして「ロンドン中心部における最悪の終着駅、醜くい上に使いにくい」[11]などと酷評されている。 リチャード・モリソンはタイムズ紙で次のように語った:「60年代の寒々とした標準であったとしても、ユーストン駅はロンドンにおける最も醜悪なコンクリートの箱である。装飾がまったくなく、旅客に最大の苦悩をもたらす暗い影である。そのデザインは決して製図板から離れるべきものではなかった。人間性に敵意を抱き吸血鬼のように日光を嫌うアンドロイドの殺し屋によって薄汚れた紙袋の後ろに描かれた下手くそな走り書きという印象を与える。[12]」 駅には障害者の通行が難しい箇所がある。コンコースからプラットフォームに下りる傾斜路は補助する人のいない車椅子には傾斜がきつ過ぎるし、地下鉄、タクシー乗り場、駐車場はすべて建物の中にあるが、車椅子は段差があるため通行できない。タクシー乗り場と駐車場へは建物正面にある階段でつながっている。 1962年の旧駅舎の取り壊しは「イギリスにおける第二次大戦後の最大の建築物破壊行為の1つ」と考えられ、最終的には保守党のハロルド・マクミラン(Harold Macmillan)首相によって認可されたと信じられている。 建物の保存を求める試みは、著名な桂冠詩人ジョン・ベチェマン(John Betjeman)を巻き込みビクトリア社会の形成を導き現代的保存活動を先導した[13] 。新しい列車庫の低い天井は、ロンドンの19世紀の列車庫の風通しのよい様式にまったく合わせようとしなかった。しかしこのユーストン駅での損失は、1966年に同じようにイギリス国鉄によって取り壊しが検討されたゴシック様式のセント・パンクラス駅を救うこととなった。ジョン・ベチェマンによる擁護と保存運動の再燃により同駅は生き残り、2007年には大陸への高速ルートの終着駅として再整備された。 ユーストン駅における駅舎の取り壊しは、1964年のニューヨーク・ペンシルベニア駅の取り壊しとよく比較される。これらの破壊は両都市の保護主義者に歴史的建築物の保存の重要性を強く認識させることとなった。 1973年のIRAによる爆弾テロ1973年9月10日13時10分ごろ、スナック・バー近くでIRAの爆弾が爆発し、広範囲な、しかし表面的な損傷を受けた。首都警察は3分前に警告を受けていたが、爆発前に完全に避難させることはできなかった。翌1974年、犯人であるかどうか大変疑わしいとする証拠があったにもかかわらず、精神疾患を持つジュディス・ウォード(Judith Ward)が、本事件と他の犯罪に関して有罪判決を受けた。彼女は1992年に完全無罪となったが、真犯人はいまだ捕まっていない[14]。 民営化1990年代の鉄道会社の民営化後、本駅はレールトラックに引き継がれ、その後ネットワーク・レールに移管された。2005年、ネットワーク・レールは駅の再開発に関する長期展望の報告を受けた。その内容は、1960年代の建物を取り除き、プラットフォームの上の「空中権」を使って新駅舎の容積率を高め、多くの商業スペースを設ける、というものだった。 2005年、ネットワーク・レールは、ユーストン駅の再開発の一環として、ロンドン地下鉄のユーストン・スクエア駅と接続する計画をアナウンスした。ユーストン・ロード沿いに徒歩5分の距離だけ離れている2駅が結ばれる[15]。 2007年の駅舎再建のアナウンスメント2007年4月5日、ブリティッシュ・ランドは、40年経った既存の建物を取り壊し新しいターミナルを再建築することをアナウンスした。このエリアの10億ポンドの再開発予算のうちの2億5000万ポンドをこの計画に支出する。この結果プラットフォーム数は現在の18から21に増える予定である[16] 。メディアは2008年の年初、旧ユーストン・アーチを再建する絶好のチャンスが到来した、と報じた[17]。 運行情報4つの列車運行会社がユーストン駅を使用している。(本数は1時間あたり) ヴァージン・トレインズ - 急行ネットワークを運営
ロンドン・ミッドランド - 長距離通勤サービスを運営
ロンドン・オーバーグラウンド - 近距離通勤サービスを運営
ファースト・スコットレール - 毎日カレドニアン・スリーパーを運行
隣の駅
ロンドン地下鉄詳細は「ユーストン駅 (ロンドン地下鉄)」、「ユーストン・スクエア駅」をそれぞれ参照 ユーストン駅はロンドン地下鉄のユーストン駅(ヴィクトリア線とノーザン線のバンク支線とチャリング・クロス支線)に直接つながっている。 ユーストン・スクエア駅(サークル線、ハマースミス&シティー線そしてメトロポリタン線)はユーストン・ロード沿いに徒歩3分の距離である。 参考文献
外部リンク
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